鷲神社の創建年代等は不詳ながら、新羅三郎義光が奥州下向の途次、当地で奇瑞を感じたことから神楽を奏上、跡地に祠を建てて鷲明神を奉斎したと伝えられるといいます。
江戸期には辻村の鎮守社として祀られ、明治6年には村社に列格、明治41年に字西原の雷電社、字原山の稲荷社、字辻の稲荷社を合祀しています。

御縁起(歴史)
当社は奥州街道(後の日光御成街道)の西、やや奥まった所に鎮座している。その社叢は市から「ふるさとの森」に指定されており、市民の憩いの場として親しまれている。
社伝によると、平安期、兄八幡太郎義家を援けんと、新羅三郎義光が奥州街道を下向する途次、当地において奇瑞を感じた。そこで神楽を奏上し、跡地に祠を建てて鷲明神を奉斎したという。
本殿には、翼を広げた鷲の背に立つ鷲大明神像と神鏡が安置されている。神像の底面には、「明和八辛卯歳(一七七一)霜月 □四郎 別当惣持院法印恵快代」と記され、また、神鏡の台座の底面部には「嘉永六丑年(一八五三)三月 別当阿日山惣持院十四世現住法印覚□謹誌」と記されており、江戸期、別当惣持院が当社の祭祀を司ってきた様子の一端を伝えている。ちなみに、当社の南方二〇〇メートルほどの所にある惣持院は真言宗の寺院で、寺伝では天正五年(一五七七)五月に開山良秀が入寂したとされる。
『風土記稿』は辻村の神社について「鷲大明神社 村の鎮守なり、惣持院持なり、稲荷社二字 雷電社 以上三社村民持」と載せる。
当社は、明治六年四月に村社となり、同四十一年十月に字西原の雷電社と字原山の稲荷社を合祀し、更に同年十一月には字辻の稲荷社を合祀した。
御祭神と御神徳
・日本武尊(やまとたける)・・・武運長久、厄除け、縁結び
御祭日
・村祈祷(現在五月中旬)・お日待(現在十月中旬)

普段は人のいない神社だが、5月と10月の年2回行われる「南部領辻の獅子舞」の時は多くの人が訪れるらしい。
この神社は駐車場が無いので、バスや、近くにある「総持院」の駐車場を利用する。

南部領辻の獅子舞獅子頭、衣裳及び道具類
天狗、弓持ち、お守り持ち、笛(二人)、簓(二人)、太夫、中獅子、女獅子の十人分の衣裳及び道具類からなります。笛方、簓方が被る花笠(オゼン)の一つには、明和五年(一七六八)に岩槻の林藤町で作ったことが墨書されています。獅子頭をはじめ弓や天狗面に至るまで、制作は優れており、激しい舞にもかかわらず、良好な保存状態を保っています。
なお、これらの衣裳及び道具類を納める長持及び長持覆い一式が付けたり指定となっています。
この獅子舞は、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光が奥州へ兄を助けに向かう途中、兵士の士気を鼓舞するために舞ったものを、土地の人たちが習って伝えたものといわれます。
いわゆる「三頭一人立ち」の獅子舞で、毎年五月と十月に鷲神社に奉納されるほか、五月の奉納後には地域を回り、氏子の庭先でも舞われます。地域の「厄払い」のために舞われるという本来の姿をよく伝える獅子舞で、太夫(大獅子)を中心にした三頭の獅子が勇壮に舞います。

「南部領辻の獅子舞」は、昔、南部領辻地区に住む家督を相続する人だけが、獅子舞ができるルールだったようです。
その為、「 辻(南部領辻)には婿に行くな 」と言われていた時期もあったそうです。
東京オリンピック頃から農業を継ぐ人が減り、獅子舞の担い手が不足していき、昭和44年を最後に自然消滅。
昭和55年2月にさいたま市立野田小学校の新校舎落成式、平成7年3月にさいたま市立浦和くらしの博物館民家園の竣工式で獅子舞が行なわれました。その後、「南部領辻の獅子舞保存会」が立ち上がり、平成12年10月に復活し現在に至ります。
浦和市鷲神社社叢ふるさとの森

末社御神体 七体

住所・アクセス
埼玉県さいたま市緑区南部領辻2914
国際興業バス「総寺院」徒歩4分・「中野田」徒歩6分